シリーズ:「情報社会」って何?どこに向かっているの? 情報社会学者・公文俊平に聞く

「情報社会」って何?どこに向かっているの?情報社会学者・公文俊平に聞く


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連載第1回 災害後の日本社会と知の最新の流れ

 携帯電話が身近になり、ネットも普通に使えるようになってきた現代社会は、よく「情報社会」と言われます。 しかし、漠然と「情報社会」といいますが、それまでの社会とどこが違うのでしょうか?これからどこに向かっていくのでしょうか?
 東日本大震災で、日本はとても大きなダメージを受けました。その前から、経済が低調な状態が何年も続いてきましたし、 国家の財政は巨額の赤字を積み上げ、少子高齢化が進み、社会の活力が失われているとよくいわれます。 このままで日本は本当に大丈夫なのでしょうか?若者はどのように生きていけばよいのでしょうか?
 本研究所の創設にかかわり、現在は理事長を務める、多摩大学情報社会学研究所の公文俊平所長に、 情報社会学者として、日本の若い人たちに伝えたい話を、これから数回に分けて語っていただこうと思います。

災後社会を考える

【公文俊平】
 大震災から一年がたちました。一年たっても瓦礫の処理がまだ6%しか進んでいないといわれるほど、 今回の災害の規模は大きく、復興は困難を極めています。それも単なる規模の問題というよりは、どうやら私たちの国が、 とりわけその政府が、突然の大災害のような問題への組織的な対応力を失ってしまっているらしいところに、問題の深刻さがあります。
 大震災というだけならば、1921年の関東大震災や1995年の阪神大震災など、私たちの国は多くの経験を積んでいます。津波を伴う地震も、 過去に何度となく経験しています。今回の超巨大地震と津波の教訓も、学びとられ今後の備えに活かされていくでしょう。 復興も、遅々としてではあっても着実に進んでいくでしょう。
 しかし今回の大震災には、過去のそれに比べると根本的に違っている点が、少なくとも二つあります。 その一つは、それが大原発事故を伴ったということです。もう一つは、私たちが、人口減少、資源枯渇、気候変動などのような、 社会環境の大きくて長期的な変化の入り口に、いままさに立ったようにみえるところで起こったということです。

 私たちは、大原発事故にはかりしれない恐怖を感じています。目にはみえないけれども、私たちの健康を損ない、 生命さえ奪いかねない放射能の前に、私たちの安全と安心はどうすれば保障できるでしょうか。 今回の事故を「収束」させて廃炉にもっていくだけでも、50年も100年もかかるといわれています。 事故を起こしていない原発でも、そこから生みだされた大量の「核のゴミ」は、捨て場がありません。原子力から再生可能エネルギー (太陽光、水力、風力、地熱など)に転換するといっても、長い時間がかかります。 そうした試み自体が、巨大ダムの建設に典型的にみられるように、環境破壊を起こす危険も少なくありません。 そのつなぎに化石燃料(石油や天然ガス、石炭)への依存を高めようとしても、資源の枯渇と価格の暴騰の恐れは急速に現実化しています。

 もっと切ないのは、どうしようもない怒りと不信感です。私たちの国の政府(と電力会社)は、原子力発電は絶対に安全だといって、 その開発を「国策」として推進してきました。原発関連の防災対策強化の試みを押さえつけてもきました。たとえば2006年に、 国際原子力機関(IAEA)が安全基準の見直しを示したのに合わせて、内閣府の原子力安全委員会が防災指針の改訂に乗りだしたところ、 原子力安全・保安院は、「社会的な混乱を惹起し、ひいては原子力安全に対する国民不安を増大するおそれがあるため、 検討を凍結していただきたい」と文書で申し入れ、指針の改訂にストップをかけてしまったそうです。
(http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120326/230252/)

 それなのに、起こってはならないはずの大事故が現実に起こってしまったではないですか。 そればかりではありません。いまになって振り返ってみると、この「国策」自体がほころびだらけだったのです。 ここにきて、「核燃料サイクル」や「高速増殖炉」などの問題点が、次々に明らかにされてきています。 私たちがこれまでもっていた政府(と電力会社)への信頼は、地に堕ちました。国策を支えてきた「御用学者」や技術者たち、 とりわけトップクラスの幹部たちもそうです。彼らが代表してきた20世紀の「巨大科学技術」は、私たちの怒りと不信の対象にすぎなくなってしまいました。


【編集子】
 こういう事態=危機は、日本にとっては初めてのことなのでしょうか?これまでの経験が参考になるのでしょうか?


【公文】
 「災後」である現在の私たちの恐怖と不信は、1945年に終わった太平洋戦争の後の時代、いわゆる「戦後」のそれに似たところがあります。 個人的な話になって恐縮ですが、戦争中は小学生――正確には当時小学校は国民学校に変わっていたので、 国民学校生――だったのですが、どこからともなく伝わってくる焼夷弾や艦砲射撃やピカドンの恐ろしさの話には、本当に怯えました。 それでも、現人神(あらひとがみ)である天皇陛下のみそなわす「神州」の不滅を信じ、御国のために死ぬのは誉れだと思い込み、 敗戦の日の日記には復讐の誓いまでたてた軍国少年でした。
 やり場のない怒りと不信に駆られるようになったのは、戦争が終わって、父や叔父たちの戦死を知らされ、おまけにそれまでは軍国教育の権化だった先生たちが、 にわかに平和主義者になって天皇制や軍部を、さらに現在の政府を批判して、「ストライキ」までやろうとした時でした。 「戦争はいやだ」、「大人は信用できない」という思いがいっぺんに刷り込まれたのです。

 もちろん以上は個人的な体験で、当時の人々の体験はそれぞれ違ったものだったと思いますが、戦後の日本人のほとんどが、 戦争を恐れて嫌い、国の指導者に不信の念を抱くようになったのは、間違いありません。戦後の政治は、国民のこうした情念を無視できませんでした。 だから「軍隊」を表立ってもつことはできないまま、国民に対しては、犠牲を求めるよりは「バラマキ」に徹してきたといえるでしょう。 国民の側も、政治家を軽蔑しながらも、国にゴネたり国からぶんどったりするさいの代理人として政治家を使うようになったのでしょう。
 「善良な国民は、悪辣で無知な指導者にだまされた被害者だ」という考え方は、戦後の国民の間にあっというまに定着してしまいました。 占領軍もそうした見方の定着に手を貸しました。私たちが、自分たちにも戦争の加害者、侵略者としての一面があることに気づかされたのは、 戦後30年ほどたった後のことでした。
 しかしそうなると今度は、私たちの中に、完全な被害者、差別され無視されるだけの「マイノリティ」を見つけ出して そうした人々に自分が乗りうつって、加害者を一方的に糾弾する姿勢が生まれてしまいました。 絶対的な正義の側にたてるのは、とても気持ちがいいものなのです。とりわけ日本のマスメディアには、そうした態度が目立つようになりました。 佐々木俊尚さんは、新著『「当事者」の時代』で、そうした傾向を「マイノリティ憑依」とよび、それが広がるようになった経緯を詳しく解き明しています。

 今回の大震災では、政府(とりわけ原子力安全・保安院)や電力会社が、新たに「悪辣な指導者」として国民的な反発と不信の対象となりましたが、 被災者や被爆者に対する新たな「マイノリティ憑依」現象も、そうした人々を「穢れた」人々とみなす新しい差別意識と同時に生まれてきています。
 その一方、「戦後」70年近い年月がたって、戦争はすっかり遠いものになりました。なんといっても日本の場合、戦争とはほとんど無縁なままに やってくることができたのです。ですから戦争への恐怖心も、かなり風化してきたように思われます。「自衛隊」も、「災後」のめざましく献身的な 活躍が認められて、ようやく国民の信頼を取り戻しました。「自衛隊」が「国防軍」として頼もしがられるようになる日も、それほど遠くないでしょう ――自然災害はともかく、国際紛争への対処で無様な失敗をしでかさない限りですが。

 問題は、政治家と政府(官僚)への信頼です。国民の圧倒的多数の支持を受けて「政権交代」に成功した民主党は、 非現実的だった「マニフェスト」の多くを実現できないばかりか、大震災への対応も後手後手にまわり、たちまち馬脚を現しました。 だからといって自民党が復活している気配はありません。「脱官僚」を叫ぶ民主党の政権運営が、じっさいには官僚のいうがままになってしまったことは 誰の目にも明らかですが、だからといって官僚への国民の信頼が高まったとは思えず、政治家やメディアによる建前としての官僚叩きは、ますます熾烈です。
 いまのところ、信頼回復の兆しがわずかにみられるのは、「維新の会」に代表される地方からの政治運動と、 ツイッターやUSTのようなソーシャルメディアを手段とする「ネット政治」運動の盛り上がりくらいなものですが、 そのどちらも「旧勢力」の側からの強い抵抗を受けています。


【編集子】
 では、これからの日本はどうしていくべき、なのでしょうか? 科学技術、情報通信技術(ICT)は、危機を克服してくために、何か役に立てないのでしょうか?



【公文】
 これからおいおいと議論を進めていきたいと思いますが、「災後」の私たちの国が衰退したり亡んだりしないためには、 内外両面での安全保障がどうしても必要です。そのためにも、国と国民がしっかりした相互信頼関係で結ばれていなくてはなりません。 それが大前提です。その上で、長期的な課題として、原発事故対策(と新エネルギーへの転換)を進めると同時に、20世紀型の「巨大科学技術」 ではない21世紀型の「新科学技術」を発展させることで、科学技術への信頼を取り戻す必要があります。「戦後」の日本が、米国の「巨大科学技術」 に負けたと反省して、その学習と導入に努めてきたのに、ここにきてそれへの信頼を失くしたのは、皮肉といえば皮肉な話ですが、それが科学技術一般への 不信につながるとすれば残念なことです。新しい科学技術というか、広い意味での科学技術は、「情報社会」と呼ばれるこれからの社会を支えていく知的なインフラ、 つまり「知本」にほかなりません。「知本」についても、これからもっとつっこんで考えていきたいと思います。

 ここで、これからの議論にとって参考になる三冊の書物を紹介したいと思います。 三冊とも、人類のもつ「集合的な知=技術」への信頼の姿勢で貫かれています。
 マット・リドレーとケビン・ケリーは、人類史を見渡した超長期的な観点から、知=技術の発展を論じています。 リドレーの書いた『繁栄――明日を切り開くための人類10万年史(原題:The Rational Optimist. How Prosperity Evolves)』(早川書房)は、 とても読みやすい日本語に翻訳されています。リドレーは、相互信頼にもとづく「交易」、とりわけ「アイデアの交配」の重要性に注目し、 それが人類の繁栄の基盤を形作ってきたと主張しています。

 ケリーの『What Technology Wants (テクノロジーの望むもの)』 は、残念ながらまだ日本語には訳されていません(服部桂さんが翻訳中で、年内には出版されるでしょう)。 ケリーは、広い意味での技術全体のことを「テクニウム」という新語で表現し、人類の知の総体(私の言葉でいえば「知本」)は、 遺伝子をもとにした表現型としての生物よりも一つ上のレベルの生命体となって自律的な進化・発展をとげてきたと主張しています。ケリーは、 「アイデアは突然変異する」と書いていますが、それはいってみればドーキンスのいうミームと似たもので、その実現型が個々の技術(テクノロジー)と考えると良いでしょう。

 人類はこれまで、この意味での集合知によって、さまざまな危機を潜りぬけながら発展してきました。 近年でいえば、20世紀に懸念された人口爆発・食糧不足問題には明らかに解決の兆しがみられるようになっています。 核戦争の危険も、なんとか抑え込んできました。しかし、21世紀の人類は、またまた新しい地球規模の危機に直面しようとしています。 石油や天然ガスなどの資源の枯渇、気候変動、急速な高齢化と人口減少などの問題です。

 人類はそれらをも潜り抜けてさらに新しい高みに行けるのでしょうか。この問題を正面から論じているのが、 スチュアート・ブランドの書いた 『地球の論点(原題:Whole Earth Discipline: An Ecopragmatist Manifesto)』(英治出版)です。 ブランドは、これまでは否定的にみられることの多かった過密都市、原子力技術や遺伝子組み換え技術などを肯定的に再評価しながら、 危機に対処するための根源的科学(ラディカルサイエンス)や地球技術(ジオエンジニアリング)の可能性について論じています。 ブランドは米国西海岸のヒッピー文化の中で成長した人ですが、私は彼のことを「元祖知民」と呼んでいます。それは私が、 これからの情報社会を形作る人々のことを、産業社会での「市民」とは一味違う「知民」になると考えているからであり、 ブランドはまさに初期の知民の代表だといえるからです。


【編集子】
 アメリカの本は、ほとんどがネット経由で、電子ブックとして簡単に手に入ると聞いていますが、そうなのでしょうか? また、ツイッターやフェイスブック、ブログなどを含めて、こうした科学のあり方について、専門家を含むかなり大勢の人が真剣に 議論を行い、新しい知恵を発見していると聞きましたが、日本でもそうなっていくのでしょうか?


【公文】
 日本でも、ブログに始まり、ミクシィ、ツイッター、フェイスブックなどの「ソーシャルメディア」が、このところ急速な普及を見せています。 一、二年前は、ツイッターはともかく、フェイスブックは日本では普及しないといわれていましたが、そんなことはありませんでした。 私たちもまた、全国的、いや全地球的な「集合知」を通有できるばかりか、積極的に発信することで、その発展に参加できるのです。 そのインフラが、いうまでもなくインターネット、とりわけいつでもどこからでも使えるモバイル・インターネットで、気がついてみると私たちは、 日常的に「モバイル・ライフ」を営むようになっています。さらにその先には、「スマート・ライフ」と呼べるような、新しいライフスタイルが待っているでしょう。

 日本で電子書籍の規格の標準化や普及が遅れたことは残念ながら事実です。米国では、アマゾンのキンドルに代表される書籍の電子化・デジタル化が広く 進みました。ほとんどの新刊書は電子書籍として即座に入手できます。キンドル・ストアから購入した電子書籍は、専用のキンドル端末からだけでなく、 普通のPCやiPad、iPhoneなど、さまざまな端末で読めます。無料のリーダー・アプリであるKindleをインストールするだけで足ります。

 このアプリは日本語化がかなり進んでいて、日本語の文書でもPDFなら読むことができます。英和辞書や国語辞書も搭載されています。 電子書籍の規格やリーダー端末、リーダー・アプリなどは、これからさらに進化が進むでしょう。商業出版物だけでなく、 世界中の図書館に収納されている文書や個人の蔵書も、いずれ全面的に電子化され、地球の集合知の一部になっていくでしょう。 日本がいつまでもその波から取り残されているとは考えられません。


【編集子】
 インターネットとモバイル、スマホの時代が本格的になれば、日本でも先生の言われる 「知の時代」が一気に花開くことも期待できますね。次回はさらに、そうした時代に適応し、 さらに一歩先に行くためにはどうしたらいいのかを、ぜひ教えてください。




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